携帯仮紛失

「色付きの夢はキチ○イが見る」というような記載を昔どこかの本で読んだ記憶があって。これってもしかすると「むらさき色の鏡の夢を見たら死ぬ」って都市伝説と通底しているものがあるのかもしれないけれど。とにもかくにも、そうした記載に触れたことがかえって自分の夢の中の色彩に注意を促すようにもなったりして。というわけで、この記載遭遇以前における自分の夢の色彩率についてはちょっと自信が持てないのだけれど、割にふつうに色付きの夢って見るなあ——まあそう自分が思い込んでいるだけなのかもしれないけれど——ということをいえるようにもなっているわけです。現時点においては。
 ところが小説を読んでいる場合、各シーンを色付きで思い浮かべているのかというと、これに関してはかなりに心もとない。色についての描写がある際には、それなりに意識を傾けてはいるのだろうけれど、しかしそれ以外の、例えば登場人物たちの服の色について、室内の色について、具体的に思い浮かべられるのかというと、まあはっきりと自信はないっすね。かといって、モノトーンの世界というわけではけっしてない(と思う)のだけれども。で、こういうことを意識した後に、「じゃあちょっと試しに色の描写がないところでも、適当に——というのも語弊があるから、「自然な流れで」といいかえて——色をあてはめていってみることにするか」という実験を自分に課してみると、けっこう楽しい。ような気がしないでもありません。いまこの小説を読んでいるところなんすけどね。

ツアー1989

ツアー1989

 香港の夜の街が舞台なものだから、色彩について不足するおそれはまったくなく。こうしたことを意識する前までは、それこそ「香港での不夜城」を、「日本での富士山」とか「エジプトでのピラミッド」とか「アメリカでの自由の女神」とか「フランスでの凱旋門」とか「イギリスでの時計塔」とか「オランダでの風車」みたいな、単純に象徴のそれとしてしか(大ざっぱにしか)認識できていなかったのが、こういうことを意識した後には、その細部にまでもきちんと目が届くようになった——少なくとも、それまでとはひと味違った読書体験ができるようになったといっても過言ではない。ような気がしないでもありません。香港の街だけでなく、主人公の服装や室内の様子にまで、上でいったように描写されていなくても勝手に色をあてはめているんですが。便器の色にさえも。クリーム色とかで。まあまた日が経てばこうした読み方もすぐに忘れ去れてしまう運命にあるのかもしれないけれども。
 にしても、それこそこの小説内における色彩の件って、もしかすると既に多くのひとの間では、当たり前にヴィヴィッドに「見えて」いるものだったのでしょうか? ふだんから、他人の服装とか室内の装飾に気を掛けていたら、小説を読む際にもそれと同じような傾向が反映される、とか?
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 先週末の話。風の強い日の晩のこと。美輪様の呪いかと思った。携帯をなくしたんですよ。出先で。まったくもってどこでなくしたのかも記憶になし。ことが突然なだけに、喪失感もまたひとしおというやつで。ああ、こうやってひとは喪失を重ねつつ年を取っていくんだなあ、と、その夜はうじうじと無気力に苛まれたり。大切なものをひとつずつ不可抗力に失い続け、そして最後には自分自身を失ってしまう、と。その不可避の過程に耐える予行演習かこれは? というか、いままでのそうした喪失にまつわる埋もれていた記憶がこういうのをきっかけに掘り起こされたりもして。泣くに泣けない。自分がいけないと、重々過ぎるほどわかっているから。
 結局、翌日の昼になって某銀行で落としたことが判明したんですがね。ほっと安心。再会の涙に暮れました。ありがたい話っす。もう他人の喪失感を無下に扱うことだけはぜっっっったいにしない、とこれまで以上に固く心に誓った——と同時に、当日の晩に電話した際、もっとていねいに店内を見ておいて欲しかった……などと自分の不注意を棚に上げて某銀行に対しずうずうしくも思ったことは内緒だ。(もし携帯型爆弾だったりしたら一発ではなかろうか、とか。)
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 正味期限切れになったラー油を破棄する度に、いったいラー油を正味期限前に使い切れる家ってどのくらいあるのだろう、と思う。ぼくなんかは餃子を食するときに2滴ほどしか使わないだけなのですけど。そばやラーメンに掛けるというひともいるようですが、ふだんの生活で麺類を食する機会がここ数年ほんとうになくて(家で)。あと豆板醤にも同様の疑問を抱くな。別にもう少し容量を少なくして販売してくれとメーカー側に真面目に要望しているわけではなく。純粋な好奇心として。ほんとうにどうなっているのだろう? ここらへんは意外に盲点になっているのかもしれない。特に前者の残り具合といったらはなはだしいことこのうえないし。確かに、新しく買ってきたラー油も2年近く先までもつようにはなっているんだけれども、たぶんこれも先代同様、天寿をまっとうできないような気がちらとしないでもないのです。
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 明日はハンズに出向いてジャグリング用のボールを買ってくる予定。いやそうした先日夢を見たんで。お手玉に興じている夢。とてもいい感触でした。いまだに手のひらに残っている。20世紀においてなら、こういうのにも何らかの性的な解釈を施されるのかもしれないのだけれど、21世紀に至っている現在、もっとストレートに受け止めても構わないだろうと思いまして。お手玉そのものでもいいのだけれど、せっかくなのでこっちを。今までまったく縁がなかったことだし。とかいって、ハンズにそれ用のボールが置いていなかったりしたらちょっと困るな。