アサーティブネス

 別に読んでいる本や記事の中にその単語が出ていたというわけではなく、辞書をめくっていて「へえ、世の中にはこういう単語もあるのか(別の言い方をすると「こういう概念も世の中には存在していたのか)」と、新鮮な驚きに打たれるというのも、そうは珍しい体験ではないでしょう。ぼくも一応、将来何かにつかうことがあるかもしれないと、そうした単語の上には、薄く黄緑の鉛筆でチェックを付けております。「genitality」とか。興味のある方は意味を確認してみて下さい。軽蔑の念を抱くことになるかもしれません。
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 そんな辞書の中の単語のひとつに、知っている人はじゅうぶんに知っている(にちがいない)「assertiveness training」なるものがありまして。一目見て、「なんだこれ?」と興味を惹かれた。リーダース英和には、こう書かれています。

 主張訓練、アサーティブネス・トレーニング(消極的な人に自信を持たせるようにするトレーニング)

 主に興味を惹かれたのは、カッコの中の記載。
 がしかし、興味を惹かれたとはいいながら、実際にこれについて何らかの情報収集をしようとか、働きかけようとかそういうつもりにもまたなれず。立派に「消極的な人」のひとりではありますので。
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 そんなこんなで幾星霜。
 先日、思いがけない本の中で、この単語に再会しました。何の本かというと、上野千鶴子著『おひとりさまの老後』。
 おひとりさまの老後
 実のところ、以前までは、「うさんくさいものではないだろうか」とわずかばかり疑念を抱いていたのを、この本の中で真面目にアサーティブネス・トレーニングが取り上げられているのに触れ、「じゃあちょっとためしに関連書を紐解いてみようか」と気持ちが動いたのです。で、手に取ってみたのが——
 自己主張(アサーティブネス)トレーニング―人に操られず人を操らず
 これであります。

 アサーティブネス行動は、平等な人間関係を促進する。これにより、自分が自分のために行動し、びくびくせずに自分の権利を守るために立ち向かえるようになる。さらには、自分の感情を無理なく素直に表現し、人の権利を侵害することなしに、自分の権利を行使できるようになる。

 いいですね。実にいいです。上に記されているアサーティブネスの定義なるものは、全身全霊で支持します。
 支持は、一応、するのだけれど……ただし、1回この本に目を通しただけでは、どうにも全体の内容がすんなり呑み込めなかったというのも事実。過去の人間関係に関する「あの時ああしておけばよかった」という苦い苦い記憶が呼び起こされたりもして、わりに厳しい読書体験でありました。
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 この本で、再々出てくる「(どんな些細なことであっても)自分で自分の成功を褒めよう」というフレーズに、躊躇いを覚えてしまうというところからして、消極的な人の消極的な人足るところがあるんだろうなあと、勝手に納得しているところもあります。
 実際、むつかしいっす。自分で自分のことを褒めるのって。
 そもそも、「褒める」の目的語に「自分」が付く語を持ってくるということに(意味しているところはともかく)文法的な違和感を抱いてしまったりもして。いや、もちろん間違ってはいないんだろうけれど。
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 しかし、「今年はもっと自分で自分のことを褒めよう」なんてことを真面目に書いたら、かなりにこそばゆいものがありますね。恥ずかしい。へっぽこです。子供とか同僚とか仲間とか恋人とか友達とか連れ合いを褒めようという宣言ならとにもかくにも。というくらいに、自分のことを褒めるというのは、ほんとうに、むつかしい。
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 宗教って、こうした「褒める」という文脈に対し、いい具合に(本人に躊躇いを感じさせることなく)作用しているんだろうなあと、この分野に縁遠いだけにうすぼんやりと想像してみたり。
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 そもそも、こういう性質って、幼少時の大人とのやりとりとおおいに関わっているのかしら? という話は、可塑性がなくて哀しいからあまりしたくはないのですが。
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 何にせよ、近い内に、もう1回読み返してみる予定であります。