添削行為

 他人の書いた文章はどんなひとの書いたものであろうとすべて金科玉条、侵すべからず聖典、軌範として敬い、決してそれらをたとえ心の中においてさえも「添削」しようなんて発想はこれっぱかりも湧いてこなかったものだから(教師側としては大変に扱いやすい生徒だったことだろう)、佐藤正午が『豚を盗む』で、他人の作品をばりばりと「添削」しながら読み進めるという話を披露した際には、正直、度肝を抜かれましたね(→)。

 小説家には小説家としての小説の読み方がある。あると思う。
 経験で言うと、他人の書いた小説を読むときには、自分だったらこう書くだろうな、と常に考えながら読む。たとえて言えば、校正刷にチェックを入れるようなつもりで読む。もっとはっきり言わせてもらえば、添削しながら読む。
 プロの小説家に対して失礼な話だと思うけれど、これは相手が誰であろうと同じである。明治の文豪の作品であろうと現代のベストセラー作品であろうと同じだ。例外なく添削する。添削して自分の納得のゆく文章に書き直しながら読む。書き直さないと読み進めない。

 たいへんそうだなあ……。
 しかし、実のところ、こういうのが文章の書き手とのコミュニケーションとしては理想なのかもしれない——そもそも、「文章を読んで考える」とはこういう行為をも指しているのかもしれない——とちらと思って(早い話が食指を動かされ)、ちょっとばかり試してみたのだけれども……いやいや、駄目っすね。根性がない。2日で投げ出しました。めんどくさい。これに尽きる。
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 赤ペン先生とかのイメージがちらつくからなんだろうけれど、「添削」って言葉は、ちょっとぼくには強い(←「こわい」と読んでください)。だもんだから、どうにもこの言葉は、カギカッコなしではつかいづらい。意味としてはそう違わないかもしれないけれど、こうした文脈で用いるとしたら、自分なら「推敲」って言葉を選ぶな。
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 ……などということをところどころでやっていたら、ほんとうに疲れる。(でも、こういうことをきちんとやれてるひとたちは、確実に強靱なんだろうなあ。)