ある猿

 藤子・F・不二雄の『コマーさる』って作品があるじゃない? いやそっちの方じゃなくて本家本元の方。主人公の少年がある日公園で見つけた猿には不思議な力があって、その猿が手にしているものを見ると誰でもそれを——どんなにつまらないものであっても——無性に欲しくなってしまうという…。主人公の少年はその猿の力を使ってちょっとした人助けをするんだけれども、まあそうしたメインの話は今回は置いといて。昔はこのタイトルの駄洒落に正直ちょっと拒否反応を起こしていた節もあったのだけれど(他にも『ノスタル爺』とか)最近妙にこの『コマーさる』のエピソードが気になって。別に読み返したとかそういうきっかけがあったわけでもないのに。
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 メインの話は置いとくとかいいながらやっぱり取り上げることにするけれども、この作品内における「つまらないもの」というのは、伯父だっけ叔父だけ? 単なる近所の人だっけ? とにもかくにも少年の知り合いである若い男性が描くマンガのことなんだね。どんなに一生懸命描いても描いても採用してもらえなくて、でもって同情した少年が猿の力を使って編集部での売り込みに成功する。成功したのはいいんだけれども、それでも連載がまとまって単行本になったやつは店頭で1冊たりとも売れない。最終的に、少年は、猿に単行本を持たせて、プロ野球の試合が行われている会場を横断させる。その試合会場にいた人たち、そして、試合をテレビで見ていた人たちは、猿の力に感化され、件の単行本を求めて書店に殺到する。その店頭に殺到していく人々の鬼気迫る様子がこの作品内での一大ページェントとなっていて。まあもちろんこの「猿」が何のメタファーかはわざわざ口でいうのもはばったいものがあるのだけれども…、話はここで終わらなくて。
 少年が「よかったじゃない、マンガ売れて」と無邪気な顔でいうのに対し(実際に彼は嬉しかったのだろう)、男性は「それもこれも、お猿のおかげだと思うと、虚しいよ」と脱力した顔でいう。それを聞いて少年は一瞬がっかりするんだけれど、男性はしかし、今回の猿のエピソードを利用して、新たにマンガを描いていたのだね(まだ未完成なんだけど)。そのマンガは、少なくとも、主人公の少年には、とても面白く読めた。
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 で、まあこの作品内で取り上げられているつまらないものとして「マンガ」が設定されているのが藤子・F・不二雄の含羞なのか単なる半畳なのか具体的な政治的駆け引きの一要素なのかはまったくもってこちらからは正確なところを測りようがないのだけれども、実際にこの作品は当時のぼくにはとても面白く読めて。幼心に、この『コマーさる』というマンガを描いたのは一体「誰」なんだろうと悩んだりして。悩んでないか。まあそのくらいには面白くて。アニメ化はぜっったいにされないだろうけど。禁忌中の禁忌だろう。それともされたことあるのかな? 似たような名前の猿を数年前にサウナに入っていた時テレビで目にしたことはあったけれど、その後の消息は聞かないし。
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 そうそう。この猿を使っておそらくは多大な印税を手にすることになる男性は、猿のエピソードのマンガを少年に「面白い」っていってもらえて、心機一転、「頑張るぞ」とこれからもマンガを描き続ける決意を新たにしていたのだけれど——そしてそのラストは、一読者であるぼくの胸に一陣の風を運ぶ爽やかなシーンとして受け取られはしたのだけれど——さて…、最初に「猿」に感化されてこのマンガを買った数多くの人たちは、はたして、今後この男性の描いたマンガを手に取る気になるのだろうか? どうなんだろう? 厳しいかな。ぼくなら避ける。悪いけど。少年のところからは、猿は姿を消してしまったし。んでもって、その後「見かけることはない」ってはっきり書いてあったし。うーん…。彼はその後の未来を、独力で切り拓けるのだろうか? 「猿」じゃなくて、今度は(比喩としての)犬とか雉とか猫とかアヒルとかロボットとかの助けを借りなければならなくなっているのだろうか? もしくは地道に「ベロ相うらない」(@ドラえもん)の売れない小説家みたいなことになっているのか? シンプルに消え去っているのか? わりに気になる。