余波

 漫画の中の絵を表語文字の一種とみなすと(養老孟司みたいだけれど)長年、日本における「新しい漢字」の役割はこれらが担ってきたのだろうかという思いに囚われたりもする。
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 また、戦後の国語改革の最終目的が、あらゆる漢字の廃止にあったのなら(そしてそのベクトルが現在も修正されずに残っているのなら)「新しい漢字」を作り出すという発想そのものも湧き起こり難いのかもしれないなどと思ったりもする。
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 そもそも、わたしが知らないだけで、遺伝子組み換え規制のように、もしかすると「新しい漢字」を作り出すことに対する規制が、この世には存在しているのだろうか?
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 …という具合に、とりとめもない状態で考えてはいるものの、というか、とりとめもない状態で考えているだけあって、はっきりとした答えは出ない。「どうして日本で新しい漢字が作られることはないのだろうか?」という問いに対する答えだ。
 たしかに、「辻」や「働」や「峠」や「畑」といった日本独自の字(国字)が存在していることは小学校時代に教わって知っている。知ってはいるのだけれど、それにしても、もう少し、その数があってもいいような気が仕方がない。
 なぜなのだろう? なぜ作られないのだろう?
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「必要がないから」という答えは、とうぜん、思い付く。そして、これが一番現実的な答えなのだろうと、納得はする。納得は、いちおうするのだけれど、その実、体感レベルで、いまいちすっきりしていなかったりもしている。
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 なぜなのだろう?