せいじひはんふしん、とか。

 確かに言われてみれば“おかみ”への批判心というのはものすごく弱いかもしれない。今読んでいる福田和也の本に「刀狩りをされきってしまったわれわれ日本人」なんて記載があった。ついでながら、「晴れ時々戦争いつも読書とシネマ」というこの本では、2002年「石に泳ぐ魚」(柳美里)出版差し止め判決についても触れられている。参考までに抜粋。「暴挙『石に泳ぐ魚』出版差し止めに断固反対す」。

抑圧や制限というのは、いつもこのような一見良心的な発言を装ってやってきます。「もちろん、言論の自由は、大事に決まっています、それは私が最も尊重するものです、ただこれはちょっと、いきすぎですね」という風に。そして、偽善的な発言を積み重ね、繰り返しながら、どんどん制限が拡大し、ついには身動きできなくなる。(P.107)

 今回もおそらく福田氏は文春側の肩を持つと思われる。今後の言動に注目。
 アエラとヨミウリウィークリーを立ち読み。アエラは思い切り今回の件に真紀子が関わっていると看做す。対するヨミウリは記事の内容に公益性はあったのかと疑問を投げかける。
 ついでに、YAHOO!掲示板なるものにもはじめて立ち寄った。見出しだけ見て、ああなるほど、この問題に辟易する人がいるのもわかると腑に落ちる思いだった。
 ところでなぜある種の人は政治を論ずると「なにもそこまで」と思える程激昂するのだろうか。その言説のあまりな過激さに、思考する、以前に、畏縮してしまう。まるで、新興宗教を相手にするかのように、関わらない方が無難だ、などと思ってしまう。「バカ」や「死ね」が日常に飛び交う世界に好き好んでは入ろうとは思えない。あくまで、個人的な思いとして記す。
 現在、自分にも政治不信というのは確かにある。より正確に言うと、「私が、何をしても、今さら政治なんて変えようがない」という無力感。そして、同時に、“「政治批判」に対する不信”もまた色濃く存在するわけで。ここで懺悔。昨日書いた「阿呆な使命感」とは、決して高尚なそれではなく、逆に「“おもしろ”精神を守らねば」という、上記無力感を前提とした、「政治は変えられないけど、マスコミなら変えられるかも」という何の根拠もない思い込みから来ていた。使命の名には、相応しくなかった。言語を穢したことを詫びる。
 世の中には、はっと魂が震えるような政治の言説も存在するのだろう。不幸にして、そうした言説に出会ったことは、ない。いや、実を言うと、週刊文春阿川佐和子対談に谷垣禎一が出た時には、まるで小説家や映画監督と同じような関心を抱いた(2003年9月)。かっこいい人だな、と。好意的な印象。この印象はもしかしたらまったくトンチンカンなものかもしれない。そのくらいの政治オンチだ。ただ、そうした幸福な言説との出会いは常に期待している。どうしようもない、と思える人の所業も、どうしようもない、と思える言説で語ると、また「政治不信」ないし「政治批判不信」も増長されるだろう。そういう意味において、件(くだん)の真紀子の娘の記事は(あくまで主観的な思いだ)「アウト」だったと思う。文春記事出版差し止めに与はこの際しない。あの記事の質、そして意味(“おかみ”の強大な権力は認めるが、個人にとってのマスコミもやはり強大な権力であることには変わらないと思う)について、文春から何らかの言説が与えられれば幸いなのだが。