奥泉光「散漫さについて」

 エッセイです。ここに出てくる「ポリフォニー論」、つまり「小説とは多声的」って話を読んで、前に柴田元幸が「日本の作家はあまり小説内の”声”に自覚的ではない」と言っていた記事を思い出す。つまり、柴田氏がよく訳すアメリカの小説家たちは、小説内で使われる独自の“声”に敏感である、ということらしいんだけど。奥泉流に、それが「多声的」となったら、柴田氏に馴染みのある「声」とは別物になっちゃうような。つまり、私には、アメリカの作家たちが気を配っている声って「単声」というイメージがあるのだ。でないと、とても「発見する」なんて発想は起こり得ないと思うし。どうなんだろう。小説の技法に意識的な奥泉氏の「声」、柴田氏が長年に渡って紹介している「声」、両者は似て異なるのか。