『テヅカ・イズ・デッド』

丸善本店のサブカルコーナーで購入。八重洲ブックセンターではどこに置いてあるのかわかりませんでした。(ちなみに、丸善ではまだ『大奥』が置いてないんだよなあ。どうしてなんだろう?)
この本、『たけくまメモ』でものすごく丁寧に取り上げられていたのでね、読んでみた次第。
そうそう。藤子不二雄Aの『新宝島』崇拝はものすごいものがあったよなあ(もちろん『まんが道』における)。どちらかといえば、手塚治虫そのものより、この藤子不二雄Aの「崇拝」に感化されている節なきにしもあらず――といった感じであります、わたくしの場合。
そうした「崇拝」が結び付いて、ある種の手塚信仰は連綿と続いていたのかもね。
藤子不二雄Aの「崇拝」表明も、何らかの政治的意図があったのではと一時疑っていたのだけれど(だって、その表明が行われていたのは手塚治虫が生きていた頃だし、お伺いの意図もあったんじゃないかって)、それはちょっと穿ち過ぎだったんだなあ、とこの本を読んで反省しました。なるほど、あの世代の人たちが手塚治虫を崇拝するのにはそれ相応の必然があったのだね。意地の悪い想像をして、済まなかった。
でもさ、ある人がある人を異様に褒めるのって、やっぱり何か「ある」んだよなあ。ナルシシズムルサンチマンの発露といった、そういう文脈ではなくて(いや、これももちろん「ある」のだろうけれど)。うーん、マンガそのものより、こっちの心理のほうにより興味を持ってみたり。(特に男性のそれに興味大。)生存欲や出世欲――あと破壊願望とか――との関わりとかさ。って、人のこととやかく言える資格なんてないんだろうけど。
 ちなみに、僕が肉親や知人以外の死で泣いたのは、長谷川町子藤子・F・不二雄くらいかな。伊藤剛氏の「手塚治虫」に倣って言うなら。いや、これほんとに。手塚治虫の死の際は、受験真っ最中だったので、(学校に行けずに)そのことをクラスメートと語り合えなくて残念と思ったくらい。