外延

 まあ期待はしていたけれど、うまいよなあ。江國香織の『真昼なのに昏い部屋』(→)。ああ判る判るその気持ち、って感じるひとが大勢いるだろうな、っていうことを思わせる手腕がほんとうにうまい。ということはすなわちぼくもまたその「ああ判る判るその気持ち」っていう風に感じていたひとりに他ならないわけですが。(はしごの比喩が中々出てこないところとか。)
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 ところで、事前に知っていた「大人の恋愛」を「絵本の文体」で描くという試み。これに対し、素直に「つまるところそのミスマッチが楽しいんだろうな(おかしな喩えだけれど「羊頭狗肉」←悪い意味ではなく・みたいなものなんだろうな)」という風に想像していたのだけれど、一読してみると、そうは単純なものでもないんだな。大人と子供(絵本の文体)ってのを対立項として捉えているってのが既にして陳腐極まりない感性なんだろうけれど。
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 では、何がそう単純ではないのかというと…うーん、どうにもぼくには、この小説が、多和田葉子がいうところの「エクソフォニー」(→)の新しい形に見えて仕方がない。いわゆる「母語の外に出た状態」ってやつ。使われているのはとてつもなく判りやすい日本語なんだけれど、でも明らかに「違う」んだよな。
 で、それはもちろんここでの絵本の文体(で描かれるところの恋愛描写)、そして主人公のひとりに外国人が設定されているところから湧き上がってくる感覚なんだろうけれど——うーん…うまくいえない。
 結局、門外漢のぼくがこんな文章を綴っているより、多和田葉子が『真昼なのに昏い部屋』の書評に直接乗り出してくれたら話が早いしとてつもなく面白いものが読めるような気が濃厚にしないでもないという風に思っている次第。無理だろうか?(この想像自体が楽しいってのもある。)江國香織多和田葉子って名の連なりもどことなくミスマッチのような気がしないでもないけれど…これこそ正に陳腐極まりない感性なんだろうな。

誤名

 えーと今度できた三菱の美術館でやってるのってマネだっけモネだっけどっちだっけ? というくらいにこのふたりの区別がつかない。今確認してみたらマネだった(→)。でもまたしばらくすれば「どっちだっけ?」という疑問に襲われそうな気もする。そういうことをこの人生の間で何回も何回も繰り返して来た。興味がないわけではないと思うのだけれど…でもやはりこれは「ない」ということになるのかな?
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 それと同じようなことを今回鬼籍に入られた井上ひさしに対しても思う。といっても、氏と「井上靖」の区別が付かないというのでは(一応)なく、鬼籍に入られたことで、このふたりの混淆度が未来のひとびとの間でより一層増したのではないかということをぼんやりと想像するのだった。つまり、もしぼくがマネとモネと同時代に生きていれば、上で書いたようないつまで経っても解決しない混淆から容易に抜け出せていたかもしれない、という気がしないでもないということがここではいいたいのですね。

  • マネ:1832-1883
  • モネ:1840-1926

 どっちもフランスの画家だしなあ←という大ざっぱな括り方に問題があるということは重々承知の上で。

  • やすし:1907-1991
  • ひさし:1934-2010

 どっちも日本の作家だしなあ→という大ざっぱな括り方をする未来のひとに、今からほんのりと同志愛のようなものを感じていたりする。
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 たぶん北条家の子供たち——北条時政の子孫たちのあまりにややこしい名前の群(→)を巧みに覚える技ってのも世の中には存在するのだろうけれど…しかし、そもそも鎌倉時代には、はっきりと興味が湧かないのだった。こうした名がネックになってるってのもちょっとはあるような気もするけれど。

過渡期

 過渡期という言葉について考える。考えるというか、そもそも過渡期でない「期」は存在しないのではないかということがいいたいのだが。いいたいというか、単にそういう風に思っただけなのだが。
 これはあくまで巨視的に捉えた際の意見であって、微視的に捉えた場合、過渡期としか呼び得ない——そこでの変化の速度は通常のそれを遙かに上回っている——時期が存在しているということもいちおう納得しているものの、それでも、この過渡期という言葉はちょっと不思議だ。
 前に某所で「白いホッキョクグマ」という言葉を揶揄している文章に出会ったことがあったのだけれど、「過渡期」って、この「白いホッキョクグマ」と質的にどこか似ているところがあるような気がしないでもない。
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 単純に、「過渡期」の「過」の文字を「over」と捉えるか「pass」と捉えるかの差なのだろうか?(何だか自分で書いていて訳がわからなくなって来た…。)

疑事主因

 母方の祖父は帝銀事件(→)で容疑者候補に挙がったことがあるらしい。又聞きによると、当時は丸形のメガネが主流だったのだけれど、祖父は異なるタイプのものを掛けていたことがその主因となった由。身内としては、「へぇ」というより他にない。個人的には、当時(30代)から祖父は総白髪だったということにも驚いた。あれみたいだ。秋○宮。
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「あき○ののみや」はふつうに変換されるんだけれど、「ていぎんじけん」が「低吟事件」としかならない…。

名当て

 某人気作家の弟の名前は三島由紀夫の登場人物から取られている由。昨夜の夢で「その名前は何なんだろう」ということを集団で真剣に考えていた。ヒントとして、

  • 四文字である
  • カタカナである
  • ニンニクと関係している

 というものが挙がっていたのだけれど(しつこいけど夢の中で)、『禁色』『春の雪』『仮面の告白』は却下され、結局判らずじまい。『禁色』だと、稀代の美青年「南悠一」から取って「悠一」となり、それは某高齢プロスキーヤー兼登山家と非常に似た響きとなって…ということを目覚めてからも考えているとその内にほんとうに正解に辿り着いてしまうかもしれないのでちょっと怖い。『春の雪』だと「松枝清顕」かなあ(←未読)。個人的にこの字面は割に好き。ひらがなであるお姉さんの名前とも微妙に釣り合ってるようにも思えるし。
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 いまその作家のエッセイを読み直してみたら、「当て字」とありました。何だろうな? ってもう止めよう。

朝の荒俣

 偶然通りかがったテレビで荒俣宏を久々に見て、ちょっと驚いた。あくが抜けたなあ。と。でもこのあくというのもあくまでぼくが心の中だけで長年育成していた仮想のもので、実際の荒俣宏はこの前ぼくが見たときと同じような感じでずっと爽やかに生を満喫していたのかもしれない。
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 生の荒俣宏は1回だけ見たことがあるよ。原宿での横尾忠則の本のサイン会に突如登場して(でもって横尾忠則と楽しそうに喋ってて)。生の荒俣宏を見て誰もが感じるであろう感想を、そのときぼくも抱いた。「なんて背が高いんだ」と。
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ゲゲゲの女房」は見てません。見てないけど、先月ラジオで京極夏彦が披露していたキャスティング裏話にはけっこう笑った。水木しげるに、自分の役に誰がいいか娘さんが訊いたんだって。それに対する、翁の答え。「荒俣がいいんじゃないか…」。
 いいなあ。朝の荒俣。でも、このときのぼくの心での荒俣宏は現実の荒俣宏よりも確実に濃い(あくの強い)イメージでしかなかったものだから、あくに関する心内修正を終えた現時点においては、この「いいなあ」の意味合いも微妙に異なってくるというもので。
「背の高さでは(ヒロインの女優と)釣り合ってる」とラジオでは大いに盛り上がっていたけれど、意外に、真面目に、「若い頃の水木→現在の荒俣」という図式は、そうは悪いものではないような気もしてくる。相手役を規定するのがもしかすると大変かもしれないけれど。少なくとも、「水木役の荒俣が出てくるドラマを見てみたい」と思う人間がここにひとり。出来れば、朝という時間帯を死守した形で。

ある猿

 藤子・F・不二雄の『コマーさる』って作品があるじゃない? いやそっちの方じゃなくて本家本元の方。主人公の少年がある日公園で見つけた猿には不思議な力があって、その猿が手にしているものを見ると誰でもそれを——どんなにつまらないものであっても——無性に欲しくなってしまうという…。主人公の少年はその猿の力を使ってちょっとした人助けをするんだけれども、まあそうしたメインの話は今回は置いといて。昔はこのタイトルの駄洒落に正直ちょっと拒否反応を起こしていた節もあったのだけれど(他にも『ノスタル爺』とか)最近妙にこの『コマーさる』のエピソードが気になって。別に読み返したとかそういうきっかけがあったわけでもないのに。
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 メインの話は置いとくとかいいながらやっぱり取り上げることにするけれども、この作品内における「つまらないもの」というのは、伯父だっけ叔父だけ? 単なる近所の人だっけ? とにもかくにも少年の知り合いである若い男性が描くマンガのことなんだね。どんなに一生懸命描いても描いても採用してもらえなくて、でもって同情した少年が猿の力を使って編集部での売り込みに成功する。成功したのはいいんだけれども、それでも連載がまとまって単行本になったやつは店頭で1冊たりとも売れない。最終的に、少年は、猿に単行本を持たせて、プロ野球の試合が行われている会場を横断させる。その試合会場にいた人たち、そして、試合をテレビで見ていた人たちは、猿の力に感化され、件の単行本を求めて書店に殺到する。その店頭に殺到していく人々の鬼気迫る様子がこの作品内での一大ページェントとなっていて。まあもちろんこの「猿」が何のメタファーかはわざわざ口でいうのもはばったいものがあるのだけれども…、話はここで終わらなくて。
 少年が「よかったじゃない、マンガ売れて」と無邪気な顔でいうのに対し(実際に彼は嬉しかったのだろう)、男性は「それもこれも、お猿のおかげだと思うと、虚しいよ」と脱力した顔でいう。それを聞いて少年は一瞬がっかりするんだけれど、男性はしかし、今回の猿のエピソードを利用して、新たにマンガを描いていたのだね(まだ未完成なんだけど)。そのマンガは、少なくとも、主人公の少年には、とても面白く読めた。
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 で、まあこの作品内で取り上げられているつまらないものとして「マンガ」が設定されているのが藤子・F・不二雄の含羞なのか単なる半畳なのか具体的な政治的駆け引きの一要素なのかはまったくもってこちらからは正確なところを測りようがないのだけれども、実際にこの作品は当時のぼくにはとても面白く読めて。幼心に、この『コマーさる』というマンガを描いたのは一体「誰」なんだろうと悩んだりして。悩んでないか。まあそのくらいには面白くて。アニメ化はぜっったいにされないだろうけど。禁忌中の禁忌だろう。それともされたことあるのかな? 似たような名前の猿を数年前にサウナに入っていた時テレビで目にしたことはあったけれど、その後の消息は聞かないし。
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 そうそう。この猿を使っておそらくは多大な印税を手にすることになる男性は、猿のエピソードのマンガを少年に「面白い」っていってもらえて、心機一転、「頑張るぞ」とこれからもマンガを描き続ける決意を新たにしていたのだけれど——そしてそのラストは、一読者であるぼくの胸に一陣の風を運ぶ爽やかなシーンとして受け取られはしたのだけれど——さて…、最初に「猿」に感化されてこのマンガを買った数多くの人たちは、はたして、今後この男性の描いたマンガを手に取る気になるのだろうか? どうなんだろう? 厳しいかな。ぼくなら避ける。悪いけど。少年のところからは、猿は姿を消してしまったし。んでもって、その後「見かけることはない」ってはっきり書いてあったし。うーん…。彼はその後の未来を、独力で切り拓けるのだろうか? 「猿」じゃなくて、今度は(比喩としての)犬とか雉とか猫とかアヒルとかロボットとかの助けを借りなければならなくなっているのだろうか? もしくは地道に「ベロ相うらない」(@ドラえもん)の売れない小説家みたいなことになっているのか? シンプルに消え去っているのか? わりに気になる。