儂問題

 例えば「障害」と記すか「障碍」と記すかという問題は浮上しても、ここで「どっちも何だからいっそのこと新しい漢字(っていうか言葉)を作ろうか」って意見が真剣に出て来る例はあまり耳にしない。
 でもカタカナでの新語は、「アラフォー」だの「イクメン」だのというものがぞくぞくと出て来ているのに(そしてそういう新語を多大に利用している層がいるのだろうに)。「KY」もそうか。謎だ。→何が「謎」なのかというと、この「新しい漢字を作る」ことに対するハードルの高さが。
 加えて、何となく「新しい漢字を作る」という発想は、児戯に等しいものとして扱われている風潮がある、で、それもまあ仕方ないかと思っている自分もいる*1。←この自分の納得具合も含めて、「謎」。
 変な話、日本人ってそうした「(必要に応じた)新しい漢字」を作って利用していくのが得意ってイメージがあったんだけれど、そうでもないのかな?(何が「日本人」だか)
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 まあ、たぶんぼくなんかには窺い知れない理由が横たわっているんだろう。ここには。今度、高島俊男の『漢字と日本人』を図書館で借りて来て読んでみようと思います。
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 で、その段階で(予備知識のない状態で)、今思っていることを箇条書き。

  • 「鬱」ってもう少し簡単なバージョンのもあると助かるのになあ
  • 「餃子」の「餃」ってふつうの食偏でもオッケーってことにすればいいのになあ
  • 一人称の「わし」って、「儂」とか「私」以外に、もっとぴったり来る漢字があるとありがたいんだけどなあ
  • (やや上と関連して)人偏に「老」って漢字を作ると、今後いろいろと利用できる場が出てくるんじゃないかなあ。(獣偏に「老」とかでもいいけど)

 他にもまだありそうな気がする。自分の昔ので恐縮ですが「鰍」や「鯨」問題とか(→)。
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 いつまでも和洋折衷そして温故知新だけでは、その内にけっこうむつかしいことになってしまうんじゃないかなあ。状況的に。とか偉そうに憂国してみたり。どうなんすかね?

*1:「『嫉妬』の女偏を男偏に」ってのにもちょっと笑ってしまったし。まあこれは漏れ聞くところの発話者のキャラにも因ってたんだけど。ってか、「女偏」って部首はあっても「男偏」って部首はないんですか? 「嬲る(なぶる)」は?

野比くん

 藤本弘は生前「のび太はぼく自身だ」といっていた(らしい)のだけれど、今読売で連載されている我孫子素雄の「まんが道60年」を読んでいると、意外に「のび太我孫子素雄だ」という気がちらとしてみたり。これは、かなり失礼に抵触しかねない思い付きだからいうのが躊躇われるところではあるのだけれど、しかし、「ドラえもんのび太」というコンビを「藤本&我孫子」という風に読み直してみると…何か妙にしっくり来るところが、ぼくにはある。それこそ、救いにも抵触しているような。顔だって、似ているといえば似ているし。のび太我孫子素雄(の若い頃)。どうなんだろう? それともやっぱりのび太は藤本でドラえもん我孫子?(←別に関係性を投影する必要なんてまるでないんだけれど。つい。)

下唇

『オーランドー』って過去に2回読んだことあるけど、評判が芳しい割りに正直どっちでもいまいちぴんと来なくて。だもんだから自分とバージニア・ウルフってのは相性があまりよくないんだなと勝手に思ってた節があったんだけれど、今回新たに訳された『ダロウェイ夫人』(→)、いや、ほんとよかったっす。堪能しました。こちらの好みをストレートに突いてきて。(ウルフに)カルトなファンが多いってのもようやく頷けた。
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 訳者は土屋政雄で、氏があとがきで触れていた「にっくきヴ」(日本語の中での「V→ヴ」表記問題)の文章も、上のとはまた別種のこちらの好みをストレートに突いてきて、1粒(というか1冊)で2度も3度も美味しいとはこういうことをいうのだなと実感した次第。:だもんだから「ヴァージニア・ウルフ」とは打たず土屋氏に敬意を表して上でも「バージニア・ウルフ」と打ってみた。けれど、字のバランス的には、「ヴァ」という形にもそれ相応の魅力は付随している気はちらとする。
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 ちょっと続き。こんなこというと怒られるかな。でも書いてみる。個人的な感覚では、「バージニア」と「ヴァージニア」を比べると、「バージニア」の方が間抜けに見えるんだ。「ヴァージニア」と書いても「バージニア」としか発音できないことは承知の上で。間抜けというか。
「分かる」と「判る」と「解る」みたいなものかな。音は同じなんだけれど、でも受け取るイメージには歴然と差があるし。何やかんやいって、音は同じなんだけれど、「バージニア」と「ヴァージニア」じゃ内包している意味も実のところ歴然と異なっているのかもしれない。←別に土屋氏に反論しているわけでなく、ただ何となく思ったことを書いてみた。:その「意味の差」の中にある種のしゃらくささ(西洋偉い、みたいな)が付き纏っているように見えるのが、ここでの問題を複雑にしているのかな?
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 馬鹿の派生語:バーカとヴァーカ。これのふたつには意味だけではなく発音にも歴然と差があるような気がします。ヴァーカの場合、Vの発音作法に則り(日本語であるにもかかわらず)下唇に前歯の先がきちんと接している…ぼくだけか?

WT

 ふとしたことで触れたチューリングチャイコフスキーのそれぞれの死の周辺事情が似ているなあと思って気になっている今日この頃。
 おおざっぱないい方をすると、

 この3要素がそれぞれに入っているところがなんだかとっても似ているなあと思ってるんですが…まあただ似ているなあと思っているだけで、現時点においては、それ以上自分の中で広がっていかないのがなんとも歯がゆい。
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 というわけで、こんな本を読んだりもしているところであります(→)。けっこう面白い。子供向けの伝記だからといって、今では別に「同性愛」って語を差し控えたりすることはなくなってるんすね。いいことだと思う。チューリングチャイコフスキーも草葉の陰でさぞかし喜んでいることだろう…なんてまとめ方は、まあずいぶんとあれなんですが。
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 例によって名前の話をすると、チューリングが「T」から始まる(Turing)ってのは判らないでもないけれど、チャイコフスキーも「T」から始まる(Tchaikovsky)ってのは何というか。「C」からじゃないんだ。と、愕然と、まではしないけれど、ややっこしいなあと思いはしますね。間違えそうだ、と。
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 今回(たぶん)はじめてチャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」を聞いてみたんですが、ここまで知名度の高さを誇っていて、けれども、聞き覚えがなかったってのも逆に凄いことなのかもしれない。まあ覚えやすい曲ではないってのもあるんだろうけれど。
 うつ病患者にこの曲を聴かせると劇的に症状が悪化するなんてことも書いてありますね(→)。「花のワルツ」とか「ピアノ協奏曲第1番」ならCMでも利用することは可能なんだろうけれど、確かに「悲愴」は、むつかしいかなあ(特に第4楽章のラスト)。とかいって、既にあったら御免。というか、あったら是非とも見てみたい。巧みに使いこなせてたら、それだけでもうその企業への好感度はぼくの中で劇的にアップすることと思います。
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 と、こうしてチャイコフスキーの方にはどうにかこうにか食らい付くことが出来ても、チューリングの方は。あまり食指が動かない…というよりも、最初から拒絶されている気がする。動機が不純…んー、そうかなあ。素人でも取っ付けるようなチューリングの面白い伝記って果たしてあるんですかね?

夏風邪中

 けほん。…よわまってる。努力が報われるとは限らないということは頭では(一応)知っていたけれど、胸できちんと理解できていたかというといささか心許ないものがあったのもまた確かなことで。いい勉強になりました。かといって、この先努力なんて全て人生から放棄してやるなどと意気込める程の肝が据わっているのかというとそれもまた異なっている訳で。
 まあちょっと疲れたということです。バーンアウトとまでは(多分)行かないけれど。
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 ところで、この2ヶ月で、あのスカイツリーの頭が自宅のベランダからも見えるようになっているのだった。都内在住じゃないのに。たいしたもんだなあ。と素直に感心。
 でももしかすると違うのかな? 勘違いしているだけ? 夜になったら光ってるけど。新しいゴミ焼却炉用のタワーだとか? まあそれでもたいしたものには違いないか。
 このスカイツリーを自身に投影させて、よし俺も/私も頑張って生きていこう(成長していこう)って意気込んでいるひとはいるのでしょうか? いやちょっと前に小惑星探査機「はやぶさ」の働きに自身を投影しているひとがいて、たいした共感能力だなあと(ここでも)感心したことがあったので。作ったひとに共感するのはわかるけど、無機質相手に共感って。凄いものだ。
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 藤子不二雄Ⓐの位置付けって、自分の中でちょっと迷うところがあります。あ、いま読売で半生記(「まんが道60年」)が連載されているんですが。悪いひとではない。…ないんだろうけれど…と、ここで「けれど」と繋がってしまうことに、我ながら戸惑ってしまうものがあるのです。
 この話をひとにしたら、「要するにそれってスマップみたいなものなのかな」という返事が返ってくる。
「スマップ? 唐突だね。なんでまた?」
「あ、だから、ドラえもんの方がキムタクで。いま読売で連載している方が草なぎくん」
「…」 
 いちおう謝ったほうがいいのかな。ごめん。でもぼくはどっちにも悪い感情は抱いてないよ。
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 現在『メイソン&ディクソン』(→)を図書館で予約中。でも、名前、そしてその難易度の高さだけ評判で知ってて、ピンチョンの作品ってこれまで1回も読んだことないんだ。面白いのかな? …と書いて、またやった。『メイソン&ディクソン』じゃなくて『メイスン&ディクスン』っすね。正しくは。ソンじゃなくてスン。『Mason & Dixon』。でもまだこの先懲りずに間違そうな予感もする。

左右相称2

「二」も「四」も「六」も「八」も「十」も、偶数だから左右相称なんだろうなあってことを漠然と思う子供の数はそうは少なくないような気もする。では、なぜ「一」と「三」も左右相称なのだろう? きれいにふたつで割り切れないのに。「一」も「三」も、「二」とじかに接触しているからだろうか?(←理由になってない)
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 カレンダーを見ると、おお、「日」も「月」も「火」も「水」も「木」も「金」も「土」も左右相称だって子供の頃思ってたよなあということを思い出す人もそうは少なくないような気もする。
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 あれから4年経ったけど、やっぱり未だにぼくの中でシンメトリーネームの白眉はスエキフミヒコ先生だな(→)。数字が入ってないのが高ポイント。と書いていて、小林一茶もそうだったなあと思い出す。森高千里は、かなりに惜しい。でも当時のディープなファンは、そこにこそ価値を見出していたのかもしれない。
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 TWOも、縦書きにすればシンメトリーっすね。



 いまさらながらですが。

まめえもん

 まあちょっと惹かれるネーミングではあるな(→)。

 豆粒ほどの小男で他人と魂を入れ替わり、数々の情事を楽しむ。

 数々の情事の「情事」ってのがはたしてどういうものなのかはぼくとしては皆目見当がつかないのだけれども、「楽しむ」とあるからには、まあそれなりのものではあるんだろうな。
 似たような話は、他にもたくさんありそうだ。えーと…といって、いま真っ先に浮かんだのが『キテレツ大百科』の「遊魂帽」のエピソード。そもそも、この「まめえもん」という語感が、多分に藤子・F・不二雄寄りというのはある。(だから、惹かれるんだ。)